一般財団法人 脳神経疾患研究所 先端医療研究センター センター長
衞藤義勝先生に聞く 遺伝子医療の最前線
遺伝子研究から見えてくる21世紀医療の可能性/遺伝病治療の実際と遺伝子医療の倫理
東京クリニック/南東北医療クリニック
一般財団法人 脳神経疾患研究所 附属 先端医療研究センター センター長
遺伝病治療研究所 所長
衞藤 義勝 先生
Dr. Yoshikatsu Eto
東京慈恵会医科大学名誉教授 |
【 衞藤義勝先生のご紹介 】
●日本小児科学会/理事長、監事、理事歴任、評議員 ●日本先天代謝異常学会/理事長、理事、評議員 ●日本遺伝子治療学会 副理事長、理事 ●日本小児神経学会/監事、理事歴任、評議員 ●日本遺伝子診断学会/理事、評議員 ●日本人類遺伝学会/日本神経化学学会/日本小児内分泌学会 各評議員 ●文部省学術審議会/厚生労働省遺伝子治療/各専門委員等 ●UCLA小児病院理事/米国小児科学会 名誉会員 ●国際小児科学会理事(アジア代表理事) ●国際先天代謝異常学会 会長 他多数
【 衞藤義勝先生の診療・相談 】
〇医療法人社団 三成会 新百合ヶ丘総合病院 〇一般財団法人 脳神経疾患研究所 附属 総合南東北病院 〇医療法人財団 健貢会 東京クリニック
人間のDNAはヒトゲノム計画によって解析が進められてきました。その結果、DNAへの理解は革命的に進歩し、多くの疾患が遺伝子レベルで診断できるようになりつつあると言います。
感染症との戦いから生活習慣病の克服へと進んできた医療の世界は、今後、予防医学を視野に入れた遺伝子医療の時代へと進んでいくことになるのでしょうか。
「たとえば、遺伝子を分析することで遺伝的素因や、肥満、糖尿病、高血圧、高脂血症といった個人の体質が分かり、将来発病する疾患のリスクなどを科学的に予測して病気予防に役立てられるようになってきたということです。遺伝子研究は今、そんな段階を迎えているのです」
そう説明するのは、衞藤義勝先生。遺伝病を専門とし、国際先天代謝異常学会などの理事長を歴任。遺伝病治療の発展に寄与するとともに、希少な遺伝子病ライソゾーム病など40疾患の特定疾患認定を国に働きかけ、保険収載を実現しました。
究極の医療とも呼ばれる遺伝子医療の世界。生命科学や倫理に関わる問題にも触れながら、遺伝病治療の実際と、遺伝子医療の将来の姿について、分かりやすく解説して頂きました。
遺伝子をめぐる医療の現在
—遺伝子をめぐる研究は、現在どのような段階にあるのでしょうか。また、遺伝子研究の進歩によって、医療にも変革がもたらされるのでしょうか。
ヒトゲノム解析が進み、ヒトの設計図というものも分かってきました。ヒトの遺伝子は2万5000個程度です。分子レベルで病気の原因も明らかにされつつあります。
現在は地球人類の遺伝子における人種差や個人差を系統的に解析して、疾患と遺伝子の多様性の相関を追究しようという段階に来ています。
ヒトの遺伝子はチンパンジーとの間では1%の違いがありますが、人間の個々人で比べると違いは0・1%です。
ヒトのDNAには32億の塩基対というものがありますが、そのうちの0・1%が個性を決めていると言えます。それが解析できるようになると、革命的な変化がやってきます。
ヒトそのものへの理解も大きなインパクトを受けることになるでしょう。
あと4〜5年で個々人の遺伝子を調べられる時代がやってきます。
すると、赤ちゃんのときに、あなたは将来こういうがんになりますよ、ということが予測できるのです。神経系の病気やアルツハイマー病などもそうです。
具体的に何歳というところまでは正確に予測できなくても、そういう遺伝的な素因に基づいた予測ができるようになるわけです。
遺伝子診断で分かること
—糖尿病や高血圧、がんなどの遺伝子診断について教えて頂けますか。
ヒトの病気の多くは、遺伝的素因で発症します。
糖尿病、高血圧、動脈硬化、痛風、肥満やがんなどの生活習慣病をはじめ、アルツハイマー病、膠原病や先天異常、染色体異常症などを含めた代謝異常症など、多くの疾患が遺伝子の異常で発症します。
ただし、遺伝子疾患の全てが遺伝するわけではなく、病気によって違います。
生活習慣病、がん、精神病、アルツハイマー病などの体質や気質は親から伝わることが多いのですが、これらは関係する複数の遺伝子の多型(DNAの配列の個体差)によって決まります。
ミトコンドリア病という難病がありますが、これは主に母親由来の遺伝で発症します。ダウン症のように突然変異が主で、遺伝しない病気もあります。
遺伝子診断には、患者診断、生まれる前の出生前診断、感染症の診断、がんや生活習慣病の遺伝子診断、疾患感受性遺伝子診断などがあり、すでに一部は行われています。
遺伝子を調べる方法は難しいものではなく、血液をちょっと採って、DNAチップという検査ツールで解析すると分かります。DNAの多型、つまり遺伝子の特徴のようなものが分かり、生活習慣病などの病気のリスクを調べることができるのです。
遺伝子疾患の存在は人類にとってごく自然なこと
—遺伝子の異常は特別なものではない、というのはどのような意味でしょうか。
遺伝子疾患というと、特殊な病気だと思うかもしれませんが、それは間違いです。遺伝子疾患は誰にでもあります。あまり発現しないだけで、決して特殊なものではありません。人間の個性や性格も、遺伝子の障害が起こしていると考えることもできます。
人間の遺伝子はDNAを複写する段階で読み違いが起きます。32億の塩基対を全部正確にトランスレーション(翻訳)はできません。けれどもそれが個性を決めているので、遺伝子疾患というのは特別なものではないし、誰もが遺伝子疾患の保有者と言えます。
そうした遺伝子のありようを見つめていくと、遺伝子疾患の存在は人類にとってごく自然なことです。障害を持って生まれてきた方に対する思いやりというような、あるべき社会の姿も示唆しているように思えます。
—遺伝子の研究が進むにつれて、遺伝病は必ずしも遺伝するものではない、ということや、遺伝子が要因になっている病気も分かってきた、とうかがいましたが。
遺伝病は遺伝する、つまり孫子の代まで伝わる、というのは誤解です。 遺伝子の異常、あるいは染色体の異常などによって、両親が正常でも突然変異で発病するものがあります。
ダウン症などの染色体異常症、種々の奇形症候群や、がんなどのさまざまな病気が起こります。
逆に、今まで環境要因と思われていた病気、たとえば種々のウィルスや細菌の感染症では、個体の免疫的な要因、細胞膜などにある受容体の問題など、罹患しやすい遺伝子異常が引き金になっていたり、重症化しやすい遺伝子異常が要因であることが分かりはじめています。
多くの後天的原因と思われていた病気にも、実は病気にかかりやすい疾患感受性遺伝子が証明されています。
今後、医療の道に進む者は、こうした遺伝子に関する知識が必須とされる時代がやってくるでしょう。
遺伝子診断によって、予防医学や治療の考え方も変わってくる
—自分の遺伝子を知ることは、いろいろな病気予防にも役立つわけですね
遺伝子診断によって、病気予防の考え方も変わってきます。
極端な例ですが、家族性の大腸がんが父親にあれば、お子さんにも現れます。そこで20歳くらいまでに予防として大腸を全部とってしまうということが考えられます。胃がんの特別な遺伝子を持っている人でも胃をとってしまうケースがあって、そのほうが安全という場合もあるのです。
病気を前もって予測できれば、予防医学的に早めにいろいろな手が打てるのも確かです。
糖尿病の遺伝子を持っていれば、子どもの頃から食生活に気をつけ、予防的な措置を講じることができます。
精神病も50くらいの遺伝子がもう同定されています。性格も、自閉症も、学習障害も、要因としての遺伝子異常が分かってきています。てんかんの遺伝子も100以上分かっています。
治療の可能性としては、ある遺伝子の反応を変えるような治療薬が開発されたり、病気の原因が分子レベルで分かれば、直接作用する特殊な標的薬剤でポイントを絞った治療ができるようになるでしょう。がんの場合も同じです。がんの標的治療薬も出てきていますから、病気に対する考え方も治療法も変わっていくはずです。
遺伝病の診断と治療
—現在、先生は遺伝病に関する相談やカウンセリングとともに、遺伝病の治療も行ってるということですが。
東京クリニック、新百合ヶ丘総合病院、総合南東北病院で、遺伝病全般の相談とカウンセリング、小児代謝、内分泌疾患などの診断と治療を行っています。
特に、細胞のなかの新陳代謝を営むライソゾームの分解酵素の欠損によって起きる遺伝病については、東京慈恵会医科大学時代から30年以上にわたり研究してきました。
具体的にはファブリ病、ゴーシェ病などを含むライソゾーム病という珍しい病気で、これまでは治療法のなかった難病です。遺伝子工学的な手法でつくった酵素製剤で足りない酵素を補う「酵素補充療法」などの治療を行い、多くの臨床的効果を上げています。
こうした病気の治療でも、症状が進行する前の早期診断と治療が大事です。
まだまだ研究すべき課題も多くあります。
衞藤義勝先生の著作から
ファブリー病、ポンペ病、ゴーシェ病などの遺伝病に関する専門書の監修、著作など多数
遺伝子の疾患に対する治療と再生医療
—さまざまな遺伝子に関わる病気の治療も進んでいるのでしょうか。
遺伝子に関して注目される治療法としては、遺伝子修飾治療法と呼ばれるものがあります。主に筋ジストロフィーの治療で注目されていますが、私も東京慈恵会医科大学で肺がんに対する治療を行いました。
また、ある種の遺伝的な病気は骨髄治療で治すことができます。
幹細胞移植は、リウマチや膠原病、骨髄移植後の拒絶反応の治療などにも応用が進められています。
最近、大きな話題になっているものがiPSです。京都大学の山中伸弥教授が皮膚の細胞から万能細胞(どんな組織にもなる能力を持たせた細胞)をつくりました。実は私も成功しています。まだマウスの段階ですが、今後は人間の体細胞から万能細胞をつくって、病気治療に利用できるようになるでしょう。
これまで、脊髄損傷には治療法がありませんでしたが、iPSを用いることで治る可能性が出てきました。
こうした再生医療も、これからどんどん進んでいくでしょう。
ES細胞(胚性幹細胞)では、ヒトの胚細胞を用いるという倫理的な問題を抱えていましたが、その問題はiPSによって克服されます。
遺伝子医療はバイオテクノロジーの進歩とあいまって、そうした段階に来ています。
このような話題はSF的で夢のある世界ですが、社会的には難しい問題も生じます。遺伝子組み換え食品やクローンなどでは、まだまだ未知数の部分も多いですし、遺伝子を調べることは、結婚や就職に影響があるかもしれません。保険加入にも弊害が出てくる可能性があります。
このような問題に対する倫理指針、社会的合意や法体系の整備がこれから必要になります。
遺伝子診断によって、予防医学や治療の考え方も変わる
—遺伝子診断やカウンセリングの持つ意味について教えてください。
やはり生活習慣病に対する遺伝子診断は重要です。肥満や高血圧、糖尿病の遺伝子などは、きちんとチェックしておいたほうがいいでしょう。
糖尿病は1個の遺伝子だけではなくて、数10の遺伝子が関係しています。遺伝子診断をして糖尿病の原因をある程度明らかにすることで、家族の方の遺伝的な影響にも配慮し、生活習慣の指導に活かせます。
高血圧も同じように予防に活かすことができます。
高コレステロールはだいたいが優性遺伝で、もし父親が高コレステロールだとお子さんの半分に現れます。
子どもの頃からそうしたことを知り、食事などに気をつければ、心筋梗塞などのリスクを減らし、予防医学に活かすことができます。
遺伝子診断は本人だけでなく、家族の健康を守るためにも重要です。
正しい遺伝的な認識をベースにした予防医学的な考え方を促すことにも役立ちますし、治療や予防について私たちも一緒に考えます。
もうひとつ大事な領域として、薬剤のテーラーメイドメディスンというものを紹介しておきたいと思います。
たとえば、抗がん剤を分解する能力がない人は、抗がん剤の血中濃度が高くなりすぎて副作用で亡くなってしまう人もいるのです。逆に、抗がん剤が効かない人もいます。
そこで遺伝子診断を行うと、薬剤の適切な量が決められます。これはすべての薬で言えるのですが、個人差を考慮したテーラーメイド医療の一番の決め手にもなるでしょう。
今後、さらに遺伝子医療の世界は進歩していくはずです。皆さんにはこれからの医療の革命的な転換にも立ちあって頂けるでしょう。遺伝に関する科学的な理解が広く浸透することを願っています。